Back Drop Bombが99年にリリースした初のアルバム『MICROMAXIMUM』が今年の12月22日(日)にリリースから20周年を迎える。ミクスチャー・サウンドの金字塔として知られる同作が世に出た99年の音楽シーンをいま振り返ると、そこには来たるべき2000年代の予兆がいくつもの局面で芽吹いていたことに気付く。ファイル共有サービスのナップスターがこの年の6月にローンチされ、デヴィッド・ボウイがメジャー・アーティストとして初めてインターネットを通じてダウンロードでの購入を可能にしたアルバム『Hours』をリリース。その後に起こったリスニング体験の抜本的な変革は言わずもがなだが、新たな時代への扉は開きはじめていた。
また99年は、コーチェラ・フェスティヴァルの第一回が開催。ちなみにヘッドライナーはベック、トゥール、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが務めている。さらに、ピッチフォークが拠点をシカゴに移したのもこの年。彼らは2000年代以降、もっとも影響力の大きなメディアへと破格の成長を遂げていく。つまり『MICROMAXIMUM』がリリースされたとき、音楽カルチャーのなかでは、インターネットが主導権を握っていくというリスニング環境の大きな変化と、コーチェラやピッチフォークに代表される新しい感覚のポップ・ミュージックの台頭、その双方が起きつつあった。
では、日本はどうだったか。ある面では、海外シーンの動向と歩調が合っていたとも言える。97年からスタートしたフジロックは、99年より現在も会場として定着している新潟・苗場スキー場で開催。99年の出演アクトを並べてみると、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、アンダーワールド、ブラー、ケミカル・ブラザーズ、リンプ・ビズキット……同年のコーチェラ勢とさほど遠くないラインナップだ。加えて、当時のロック・リスナーの多くがエレクトロニック・ミュージックやラップ・メタルを並立に聴いていたことも窺える。
ちなみに筆者は、当時18歳。国内外のギター・バンドを聴きながら、ヒップホップやテクノ/ハウス、ビッグ・ビートにメロディック・パンク……とにかく貪欲に聴き漁っていた。事実、日本ではCDバブルの真っ最中(販売枚数は前年の98年がピーク)。その後のCD不況が、日本のポップ・カルチャーの島国化させた一因であることを思うと、90年代終盤においては音楽産業を取り巻く経済的な余裕/裕福さが、消費者の多様な聴取体験に直結していたことも間違いない。
そうした観点でBack Drop Bombのアルバム『MICROMAXIMUM』を捉えてみるなら、このアルバムは時代が変わりゆく最中にいる興奮と、音楽カルチャーの百花繚乱たる模様をダイレクトに反映した作品と言えるのではないか。ハードコア・パンク、オルタナティヴ・ロック、ダンスホール・レゲエ、ヒップホップ、さらにはハウスやテクノに代表されるクラブ・ミュージック……出自や志向性の異なるメンバー5人が、ときに豪胆に、ときに丹念に多様な音楽性を重ね合せたうえで、ゲスト・ミュージシャンが色鮮やかにカラーリング。当時SCAFULL KINGのメンバーでもあったTAMURA SHUICHI、HUSKING BEEの磯部正文、SUPER STUPIDのLOW IQ 01らパンク人脈に加えて、ヒップホップDJ/トラックメイカーの WATARAI、レゲエ・クルー、CHELSEA MOVEMENTのMC、MARTIN-KINOOを迎えたサウンドは、ミクスチャー全盛の時代においても、ほかに類を見ないファンタジックな混ざり方を見せていた。
そのうえで、情報量の多さを混沌に直結させたトラッシーなアングラ・アートとしてではなく、あくまでスタイリッシュなフォルムを持ったストリート・ミュージックとして完成させたことに、『MICROMAXIMUM』の革新性はあった。たとえばボサノヴァのリズムとラウド・ギターを組み合わせた洒脱な“Never Seems To Last”。あるいはディスコ・パンクを数年先駆けていたロック×ハウスの“You Up Around”。ハードコアとハードバップの不穏な密会“Flow(it’s like that)”――『MICROMAXIMUM』に収録された12曲は、音楽的な斬新さ以上に、ユースを夢中にさせる格好良さが前面に出ている。
全体を貫く軽やかさをさして、ストリートに根ざした感覚とも言えるだろう。そもそも白川貴善と小島真史のツイン・ヴォーカルには、東京の路上を意気揚々と闊歩しているかのこどき躍動感とストリート・アイコンたる存在感がある。アルバム冒頭曲の“Intro”は、当時彼の手になるMISIA“包み込むように”のリミックスがクラブ・アンセムと化していたDJ WATARAIがプロデュース。SHAKKAZOMBIEのOSUMI、INDOPEPSYCHICのD.O.I.が〈Big Shout Out〉としてクレジットされ、両者への感謝の意も入ったこの曲には、当時レコード屋の聖地と言われた渋谷・宇田川町の空気がパッケージされているかのようじゃないか。
だが、それ以上に筆者がリアルタイムからクールだと感じていたのは、ドラム……特にスネアのスコーンと抜けの良い音だ。決して『MICROMAXIMUM』はいわゆる高音質の作品ではない。むしろ生々しさやラフさが魅力のサウンドだと思うが、各楽器のフレーズは立体的で際立って聴こえる。ちなみに、本作のエンジニアにあたる間瀬哲史は、2000年代以降はハウスを中心に国内ダンス・ミュージックの作品でも腕を揮ってきた俊才。各音域が明瞭すぎてドライにさえも聴こえる、そんなロックバンド然としていない音作りは、間瀬氏の手腕によるものなのかもしれない。その一方でプロトゥールズ以前(同ソフトウェアの特性を駆使し、斬新なサウンドを生みだしたCornelisの『POINT』は2001年のリリース)ならではの整いすぎていない粗さを残したプロダクションが、独特の肉体性を育くんでいる。
つまり、『MICROMAXIMUM』は、あらゆる意味で時代の狭間だからこそ生み出せられた作品だ。そして、その軋轢を5人の若者たちが懸命に乗りこなそうと試みた軌跡がこのアルバムには刻まれている。WATARAIとの1曲を除き、全曲がバンドのセルフ・プロデュースであるとこには、いまなお驚嘆してしまう。彼ら自身、このアルバムについては〈もう二度とあんなアルバムは作れない〉と語っているらしいが、20代そこそこの若さゆえの情熱と好奇心が、『MICROMAXIMUM』にほかにない輝きを宿した。
少し余談になるが、彼らの音楽的関心の矛先が、いかに多方向に向いていたかは、その後にリリースされたリミックス・アルバム『REFIXX』の人選も参考になるだろう。チャーベ、WATARAI、UKアシッド・ジャズの雄、インコグニート親子によるPara:diso、MIGHTY CROWN、TSUTCHIE、サーストン・ムーア(with ジム・オルーク!)、KAGAMI、山塚アイことDJ光光光、くるり、toe、ブリストル・シーンの顔役・クラストと、同アルバムのリミキサー陣を並べるだけで、この時代の空気感が伝わってくる。彼ら5人もまた、特異な90年代にその感性を花開かせた、幸福なリスナーでもあったのだ。
きたる20年後の12月22日、Back Drop Bombは一夜限りの『MICROMAXIMUM』再現ライヴを東京・渋谷WWWXで開催する。20年経ったいま、はたして彼らは何を思いながら、これら12曲を演奏するのだろうか。そして、聴き手にはどんな感覚がフラッシュバックするのだろうか。ノスタルジーに心地良く溺れてしまうことも決して否定しないが、やはり当時聴いていたときのように〈なんだか言語化できないが、やたらとカッコいい!〉というフレッシュな興奮を沸き上がらせてほしい。時代は進み、音楽を聴く手段やカルチャーを取り巻く状況は変わった。それでもなお『MICROMAXIMUM』というアルバムが持つ凄みや圧倒的なスタイルは、まったく色褪せていないのだ。
――そもそも渡邊さんと山嵜さんのおふたりは、どうして本日ここにいるんでしょうか?
渡邊忍「僕が知りたいくらいですよ(笑)」
山嵜廣和「ねぇ」
――BDBのみなさん、その理由を教えてください(笑)。
田中仁「忍くんと山ちゃんは『MICROMAXIMUM』のツアーでサポート・ギターをやってくれてたんですよ。アルバムのレコーディングをしていたらギターを重ねすぎちゃって、〈これ、誰かに手伝ってもらわないとライヴでやるの無理じゃない?〉となり」
白川貴善「『MICROMAXIMUM』のレコーディングのときにはじめてプロトゥールズを導入して、その説明書を見ながら録っていたんです(笑)。そういう時代。僕らもノウハウがなくて、際限なく重ねちゃってたんです」
渡邊「どうやって誘われたんだっけな」
白川「ASPARAGUSの前に忍さんはCAPTAIN HEDGE HOGというバンドをやっていて、まず忍さんにアルバムのツアーで対バンしてくれない?って声をかけたんだよね。で、山はたぶん誰かが連絡したよね?」
田中「俺が山に連絡したはずだよ」
白川「しないと出るわけないもんね(笑)」
田中「当時、山ちゃんは確か三茶の家に住んでいたよね。そこでウルルン滞在記を一緒に観たのを覚えているもん(笑)」
――『MICROMAXIMUM』のツアーはずっとトリプル・ギターの編成だったんですか?
山嵜「いや、基本的には僕と忍くんのどちらかが入るって感じでした。ツアーの前半が俺で後半は忍くんだったと思う。東京では、なんでか3人でやることになったんだよね」
白川「そうそう。AIR JAMとかは3人で出た」
――当時みなさんがいたシーンについても教えてください。山嵜さんはtoe.結成直前、DOVEをやられていた時代ですよね?
山嵜「はい。でも、それ以前からみんなとは友達でしたね。僕がバンドをはじめたのは18,19才くらいなんですけど、マサ(小島)くんがBDBをはじめる前のバンドとも対バンしていました。東京だけでなく横浜でやることも多くて、BDBも横浜の人は誰もいないのに、なぜか〈横浜系〉と言われていましたね」
一同「(笑)」
山嵜「SHERBETやGREEN GIANT、HUSKING BEEとか、あの頃CLUB 24でやってたバンドはみんな同期って感じです。年もほとんど一緒だし、みんな同じくらいの時期にライヴハウスでやりはじめた。音楽性はそれぞれ違っていたけど友だちで、なにかのタイミングでは対バンに誘って」
白川「逆に言うと、僕らからしたら友達が神奈川県民ばっかりだったんですよ。そう考えるとまぁ新宿のANTIKNOCKとかにも出てたけど、基本的には東横線の右から左に動いていただけですね。それをふまえると、渋谷がいちばんホームだったかもしれない」
――その頃に遊んでいる場所も渋谷がベースでした?
白川「僕は(ヒップホップが好きだったので)HARLEMとかでよく遊んでました。でも、メンバーみんなバラバラだったと思う。仁はよくレイヴに行ってたし」
小島真史「レコーディング中でも行ってたよね。俺、ギターなしでヴォーカル録ったもん」
田中「はい、音楽の勉強しに行ってましたね(笑)」
有松益男「俺がよく行ってたのはLOFTとかですかね。マサがLED IS A LUNCHというハードコアのバンドやってたので、それを観に行ったりとか」
――メンバー各人の音楽性が多方向にわたっているというのは『MICROMAXIMUM』の魅力としても作品に落とし込まれていると思うんですが、そもそもどういうサウンドをめざしていたんですか?
小島「リフがあってメロディーもありつつハードコアの部分が入ってて……単純にそういうバンドをしたいと思っていました。僕はパンクやメロディックなものが好きだったし、仁はメタルとかハードロックとかを通ってきていたし、タカくんはヒップホップが好きで僕にないものを持っていたから、それを合わせただけ。で、技術が足りなかったけど、益男くんと(篭橋)俊樹くんは演奏も上手くてまとめる力があった。そういうことを考えてはじめたんだと思います」
山嵜「高円寺20000Vの階段でマサに〈わし、新しいバンドやるんじゃけん〉と言われたことを覚えていますね」
一同「(爆笑)
白川「みんなそれぞれは別の場所で遊んでいたんだけど、そこで感じた刺激とかをどうバンドに落とし込むか、スタジオであーだこーだやってましたね。『MICROMAXIMUM』については」
――渡邊さんと山嵜さんは、BDBのライヴをはじめて観たとき、『MICROMAXIMUM』を聴いたとき、どんな感想を持たれました?
渡邊「いや、まずヴォーカルが2人いるってこと自体がぜんぜんわかんなかったっていうか。マイク奪い合いになんないのかなって。〈ここ俺~!〉みたいに(笑)」
白川「いや、マイク1本じゃないから(笑)」
渡邊「そういう驚きはありました。すごく新しかったし、あの頃ってやっぱネットもまだ普及してないから海外の情報も少ないし、そのなかでBDBはいろんな面で早いって感覚だったな。それはたぶん自分から掘りに行く探究心があったからだと思うし、とにかく感度の高い連中だなって感じでしたね。あとから答え合わせはできるけど、初めて聴いたときはビックリ。でもかっこいい!って。 すごく刺激的でしたよ。なのでサポートで誘ってくれて嬉しかったし、一緒に練習するとなんとなく自分でも解釈ができてきて、なるほどーみたいな。仁さんのギターもほんとに頭狂ってるから、すごく勉強になりました」
山嵜「当時を思い出すと、メロディアスな歌が乗っているハードコアが主流だったんです。もしくはゴリッとしたラップっぽいヴォーカルを打ち出したNYハードコア寄りのバンド。BDBはその中間というか、加えてホーンも入っているし、ブルータルな感じじゃなくて。演奏面でもドラムとベースのコンビネーションがしっかりしていて完成度が高かった。アウトプットや見せ方のクォリティー・コントロールにおいてインディーズのレヴェルじゃなかったんですよ。だから、20000Vで〈バンドするんじゃけん〉と言っていたのが、こうなったのかーって(笑)」
渡邊「抜きん出てたよね。〈あっ、これは人気出るな〉って感じだった。メンバーの個性は強いのに、みんながやりたいことやルーツを上手くまとめていて。普通は、これだけバラバラだとぶつかってグチャグチャになるんですよ。俺これやりたい、俺これやりたいで、結局消化不良で変になっちゃう。でも、『MICROMAXIMUM』はなんて言うのかな……料理の鉄人じゃないけど(笑)、すごい調理の仕方をしたなって思いました」
――メンバーのみなさんもリリースしたときには手応えを感じられました?
白川「出したときは、(パンク・シーン自体がバブル期で)周りもバグってたタイミングだったし、手応え的なものを感じたのはぜんぜん後ですね。時間が経つたびに、言われるのがそれしかないなって(笑)。あのアルバムだけは聴いているって人の率が上がってきて、あとは100円で売られている頻度とか。なんだったらライヴも『MICROMAXIMUM』からやっといたらいいだろみたいに思う(笑)。遠い街に行けば行くほどね」
――今回『MICROMAXIMUM』から3曲を再録するにあたって、あらためてアルバムを聴き返しました?
白川「僕は聴いてないですね。普段の生活でも聴くこともないです。〈恥ずかしいけど聴いてます〉ってのは、全員ないと思う。今回録ったのも、いまのライヴでやっているBPMやアレンジに忠実なんですよ。だから聴き直しちゃうほうがあんまりよくないな―とも思った。〈いまのそれ〉って感じにしたかったので。だとしたら、こっからもたぶん聴かない気がするな。いま録っているものさえ聴かない説もあるくらいなんで(笑)」
――はじめてRED BULL STUDIOを使ってみてどうでした?
有益「音がすごくいいですね。僕はたまにドラムのチューニングに来てたんですけど、いつか録らせてもらいたいなと思ってたのでよかった。やりやすかったし、満足していますね」
――BDBに限らず渡邊さんも山嵜さんも、10年以上前の曲をいまだに演奏することもあると思うんですけど、常にフレッシュな気持ちでやり続けられるコツなどあるんですか?
渡邊「うーん……自分もやっぱり好きだし、お客さんも好きなのかなって思えるからですかね。〆のラーメン、寝しなのヨーグルトみたいな感じ(笑)。〈これであばよだぜ〉って気持ちでやるときもあるし、なによりいまでも演奏して嫌じゃないからやっているんですよね」
山嵜「俺はどうなんだろうな。質問の答えとは少し違うんですけど、年をとってきたこともあって体感時間としてはもう10年すぎたら短いんですよ。あとはバンドをやりたくてやってるんで、〈やめたらヤバい〉という強迫観念はすごくある。バンドをやめちゃったら、きっと人のライヴも観に行けない(笑)。〈悔しい! もうやりたい!〉ってなっちゃう。だから、なんとかしがみついて、バンドをやり続けられる状況を作っている感じなんですよ」
――では、BDBのみなさんがバンドを続けていけている理由は?
白川「別に続けようと思ってないからじゃないですかね。いわゆるバンド感があるわけでもないし、〈なくなんない〉と思ってるのかもしれない。変な話、解散する意味もよくわかんなくて、だったら年に一回ライヴするくらいでもいいんじゃないかって思ってます。よく考えたら『MICROMAXIMUM』当時も10本ちょっとしかツアー行ってないんですよ。たぶん面倒くさかったんだろうな。そういうアイデンティティーはたぶん変わってない。ほかのバンドの解散とかを見聞きして思うこともあるけれど、あんまりそこで深くシリアスにも考えないんですよ」
――そういうドライな関係性を透けて見えることが、BDBというバンドの魅力になっている感じもあります。
渡邊「ドライっていう言い方はちょっと違うかもしれないけど、5人それぞれ思うことや流行りがあって、それをかけ合わせる感じが、ホントにおもしろいんだよね」
山嵜「不思議だよね。BDBってスタジオに入ってもみんな勝手にやっている感じなの。練習のときとかマサが来なかったりするし、〈ここはこうやろうぜ!〉みたいな方向性もないのに、なんで最終的にああいうふうにまとまっているのかが謎。誰がやってんの?」
田中「それが誰もやってないんだよね(笑)。俺らも不思議」
渡邊「普通はもっとメンバーで話して、〈ひとつになるんだ〉じゃないけどさ(笑)。そういうのが若い頃からなかったもんね。若い頃はもうちょっとライヴ前に円陣組んで〈ワ! ワ! ワ!〉みたいにやるじゃい?〈BDB! BDB! 行くぞー!〉みたいなさ(笑)」
一同「(爆笑)
白川「そんなのやってた?」
渡邊「俺らもやってないけど、そっからステージ行くみたいなことがあってもおかしくないですよ。20代だったんだからさ。でも音を聴くとそれくらいの熱量に感じる。『MICROMAXIMUM』以降の音源もどんどん進化していったし、そのときどきでメンバーの好きなジャンルや音楽性が入ってくるから、やっぱり聴いているとおもしろいんですよ」
――では、最後に『MICROMAXIMUM』20周年ライヴについて。どういう気持ちで臨まれますか?
白川「バンドの周年的なライヴは2014年に一回やっちゃったんでね。あの時点で正直気恥ずかしいものであったんですよ。今回も気恥ずかしさは変わらないし、セットリストを少し考えてみたら、ほぼほぼ解散ライヴみたいな内容になりそう(笑)。生前葬はこういう形だろうなって。たぶんこれ以上、周年で何かやることはないだろうし、とにかく当日までは生きているようにします、お客さんもその日まで生きていたらいいし、それ以降はお互い他人だからねっていう。マサくんはほかにある?」
小島「来てくれる人に楽しんでもらいたいっすね」
「Micromaximum」 リリース20周年
特別配信リリース
『ミクスチャー新時代』を告げる名盤「MIcromaximum」が1999年12月22日にリリースされ20年。
その中からハイライトとなる選りすぐりの4曲を、現在のBACK DROP BOMBでのLIVE仕様として
再レコーディングされたセルフカヴァー曲群の配信が決定!
3年ぶりのワンマンライブを収録したDVDと、
最新楽曲を収録したCDの2枚組盤をリリース!
ライブにはマニュピレーターとしてMop of HeadのGeorgeと、
SaxとしてScafull Kingなどで活躍中のNARIがゲスト参加。
新旧織り交ぜたベストな選曲を、今の BDBとしての音で奏でオーディエンスを魅了した。
更に新曲「Ain't Nothing」はミクスチャーバンドの旗手である彼らの本領発揮。
2020年代を読み解く"ミクス チャー・ロック"を感じられる音になっている。
2019.12.22(SUN) @ 渋谷WWW X
Open 18:00 / Start 19:00ADV:3,900yen(tax in / D別)
※Micromax Tour会場内での販売になります。